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【歴史】不田涼子引退と全国選手第5号6号

ブログは、自画自賛,我田引水がスタンダードだと、私は思っています。
故にそれを笑って許して頂ける方のみ、ココを閲覧して下さい。

その前提で、滞っていたテニストピアの歴史の1ページとからめて書きます。

この2012年3月末、不田涼子さんが引退しました。
私はその昔、不田涼子さんを照準に合わせたジュニアがいました。
先の記事で書いた、スクール日本一第一号の森美紀の妹、成美です。

彼女に、姉以上の素質を見いだしていた私が、ライバルだと勝手に位置づけていた不田涼子さんは、当時関西では鉄壁のNo.1でした。
いつかは追いつくぞと虎視眈々と狙っていた対象でしたが、本人と私の志半ば、家庭の事情もあり
『自分はテニスに情熱はそれほど無い』『やめてもいい』と、本井満氏に見出され、ナショナルにも選ばれ、本格的にプロを目指す姉のために、成美は身を引く決心をしました。

その森成美は本校全国選手第5号です。
しかし、その年の最初にして最後の全日本ジュニアに向けての練習で、あれほどパワフルに打っていたサーブはそおっと。
私は何度もどなり声を上げました。

ある日私は、コート出入り口のらせん階段の根元に彼女を呼び、静かに尋ねました。
私……『本当はテニス続けたいのと違うんか?』『もう最後やと思うから身が入らないんと違うんか?』
彼女…ほどなく涙。そして『そうやねん! ホントはわたし、テニス続けたいよ・・・』
二人…しばらく、涙。涙。
私……『最後やし、頑張ろうっ』が精一杯でした。

その彼女、第一線を退いたものの、中学校のテニス部に居場所を残しました。
2001年、中3の彼女、同じ取石中学校2年の我が娘名恵と組んだ全中大阪和歌山予選のダブルスに準優勝し、全中出場を果たしたのが最後でした。

名恵はこの大会で本校全国選手第6号となりました。

片や、2002年、不田涼子さんは、颯爽とワールドスーパージュニアで優勝しました。
その優勝スピーチ『私は高校には行きません。』『私にとってテニスが学校です。』は
観戦していた私と7歳だった安鳩方の、大きな道しるべとなりました。

実は、結局は怪我でその意味を見出せなかったものの、我が娘の名恵にとっても、通信に進む道しるべとなりました。

不田涼子さんのブログの引退表明の記事の一節
『3歳でテニスを始め、世界のトップになる事だけが、
成功だと思って頑張り続けてきました。』
に言い表されている生き方と
19歳のときの膝の怪我からの今までの復活劇は
近くに居た私達の人生に、大きな勇気と元気を与えてくれました。

ありがとうございました。

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この記事を書いた人

代表のアバター 代表 テニストピア

ジュニア指導者とチューンナップ職人の二足のワラジを履く者です。

このブログは相乗効果でそれぞれの道を極めてきた道標です。

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