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テニストピア歴史
【歴史】’07年7~8月の愛弟子達
7月17~21日 関西ジュニア選手権U12に、安鳩方(小6)と直子(小6)が出場しました。 NO.1シードの安鳩方に対して、東海からOTAに引き抜かれた中村文香選手が2番くじを引き当て、初回戦から冷や汗ものでした。 決勝 安鳩方は、田中千愛選手との決勝を消極的... -
テニストピア歴史
【歴史】’07年4~6月の愛弟子達
滞っていた歴史の更新です。 前回の歴史記事に間違いが見つかり、2007年4月から書き直します。 4月8日 関西サーキット京都大会U12は安鳩方にとって試練でした。 ポイント毎にお腹に手を添える異様な光景でスタートしました。 どんなに痛くても言い訳がまし... -
テニストピア歴史
【歴史】’06秋〜’07年3月の愛弟子達
【テニストピア歴史の更新です】 2006年11月、安鳩方(小5)がJPTA全国小学生トーナメントで準優勝しました。 後ろに映っている辻選手に逆転負けしてしまいました。 軽井沢です。 2006年11月、安鳩方のJPTA全小準優勝,美紀のサテライト優勝の披露です。 次... -
テニストピア歴史
【歴史】’06年8月末の愛弟子達
テニストピア歴史の更新です。 2006年8月 全日本Jr.が終わり、大阪サマーJr.からそれぞれの目標が掲げられて一年が始まりました。 角矢安鳩方は単の全国優勝を目指して、まずは大阪サマーJr.U11単優勝です。 德田直子は全国デビューを目指して、まずは大... -
テニストピア歴史
【歴史】’04~’06 全国選手の空白期間と全国第9号10号
【テニストピア歴史の更新です】 歴史の記述がずいぶん滞りました。 現実の激動の一年、過去に目を向ける余裕がなかったように思います。 2004年関西Jr.決勝での理不尽な事件を受けて、全国へのはしごを外された私が、次に教え子を連れてくるまで、全日本J... -
スクール情報
【スクール】全日本ジュニア追記
今回の全日本ジュニアのエピソードを追加します。 ご無沙汰していた植田実コーチに再会しました。 私は『森美紀は元気にやってますか?』と尋ねられました。 1999年私は森美紀のダブルス表彰式前に、植田コーチに随分励まされたのでした。 https://tennist... -
テニストピア歴史
【歴史】不田涼子引退と全国選手第5号6号
ブログは、自画自賛,我田引水がスタンダードだと、私は思っています。 故にそれを笑って許して頂ける方のみ、ココを閲覧して下さい。 その前提で、滞っていたテニストピアの歴史の1ページとからめて書きます。 この2012年3月末、不田涼子さんが引退しま... -
テニストピア歴史
【歴史】全国選手不在期間
2004年。 教え子が全日本Jr.ダブルスで優勝するにも関わらず、大会全期間を通じて、私の姿はそこにありません。 直前の関西Jr.決勝での、親のご乱心事件のせいです。 この全日本Jr.を最後に、本校は全国選手不在期間に突入しました。 全くの濡れ衣(後に親... -
テニストピア歴史
【歴史】逸材が消える理由ー高校テニス
将来を見据えて指導され、高く評価をされたジュニアが、選手として成功することなく消えるには、様々な理由があります。 その一つは、今後のジュニアの参考になるはずなので、実名を伏せて書くことにします。 あるジュニアは日本協会の強化本部トップの方... -
テニストピア歴史
【歴史】黄金ラッシュ 全国選手第4,7,8号の入賞
1999年の末。 念願のインドア化を果たし、元門下生からアシスタントコーチを社員として迎え、飛躍体制が更に整いました。 そして次々と全国入賞者を輩出して行きます。 1999年 8月 森美紀が竹本(江坂)と組んで全日本Jr.U16複優勝 2000年 5月 小南ちあき(... -
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【歴史】スクール日本一第一号
1999年8月。 森美紀は全日本ジュニアにダブルスのみに切符を手にしました。 私は妻と長女の名恵と門下生の小南ちあきを率いて一回戦か二回戦だけでも晴れ舞台を見届けようと有明に向かいました。 パートナーの竹本みのりさん(江坂テニスセンター)は、前衛... -
テニストピア歴史
【歴史】スクール日本一へ道 全国第3号
次の素質は既に定期クラスの中にいました。 家がすぐウラだからと来ていた森美紀です。 当時は良い素質との出会いを求めて、それまでの個人指導ONLYではなく、集団指導と個人指導の融合時代に入っていました。 『テニストピアってテニスとピアノ教えてくれ... -
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【歴史】スクール日本一への道 全国第2号
ちょうど、全国ジュニア第1号の橋本吉弘と入れ替わりに、谷野博紀が中3の三学期目前に入門して来ました。 谷野博紀は一日単位で実感できる急成長を見せ、わずかニ年で全日本ジュニアの切符を手にしました。 この遅いスタートからの急成長の鍵は、心技体... -
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【歴史】スクール日本一へ道 全国第1号
待ちこがれていた才能は、35歳の私の目の前に突如現れました。 その子は橋本吉弘…先に【スクール情報】”親の役割”で書いたので、一部重複します。 引き合わせてくれたのは、当時から現在に至って高石市を代表するママさんの谷恵子さん。 橋本吉弘のお父さんと... -
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【歴史】スクール日本一へ道 序章二
古いテニス理論が育ての親 開業当時、古い常識が強固に蔓延していました。 『踏み出しながら体重移動で打つストローク』 『腰の高さのフラット至上主義のストローク』 『真横を向いてから踏み出すボレー』 『振ってはならないボレー』 『肩で振り回すサー... -
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【歴史】スクール日本一へ道 序章
開店から二ヶ月遅れでスクールを生徒二十人位で細々と開業しました。 当時は公認指導員制度が開始したコーチ黎明期です。 そのため日本テニス協会はニックボロテリーはじめ世界の著名な指導者を講習会に招きました。 民間も活況を呈しました。 今やテレビ... -
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【歴史 KAWASAKI〜TRUETENTION時代】ガット張り日本一への道
時代はラケットの激動の嵐! ウッドからアルミ、FRPへの素材革命と同時進行でラージ革命が起きました。 乱立した種々の形状はストリンガー泣かせでした。 またデカラケは70ポンドを超える希望が多く、張上げ作業中の変形も半端ではありません。 外付けの... -
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【歴史8 1980年】スクール開校・・看板に富岡先生
ショップ開業から二ヶ月遅れでスクールをひっそりと開校しました。 開業前、退社と開業の報告を富岡先生に報告に行った私は、突然、日曜日にテニス部の練習と平行して催しておられた成人サークルでコーチングをしてみろと言われました。 私は最初の一言が... -
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【歴史7 1980年】コート自作
資金は無いけれど、お客さんも少なく、時間はたっぷりあった開業当初。 私は毎日テニスコートの自作に励みました。 高校時代、コートの全面補修をさせられたことが活かされました。 下準備の父と私 奥に旧加茂病院 右奥に建築中のテニストピア店舗基礎 ... -
テニストピア歴史
【歴史6 1980年5月】ショップ開業・・点と点の結合
1980年5月3日、テニストピアは開店を果たしました。 先祖代々受け継いだ田畑が、借入資金を生んでくれました。 父の同窓生のデサントの藤代さんには、仕入れ先から店のロゴ,包装紙,紙袋まで細かく手配して頂きました。 親戚の建設業の宮崎組には、店舗を... -
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【歴史5 1979年】脱サラ・・背中を押される
高校時代、富岡先生は 「この先生さえいなかったら、どんなに楽しくテニスができるだろう・・・」 と嫌い恐れた先生でした。 それは卒業後、日が経つにつれて 「いい先生やったなぁ・・・」 「ほんまに、いい先生やったなぁ・・・」 に変化し、膨らんでいきました。... -
テニストピア歴史
【歴史4 1979年】就職・・コートの神様との出会い
オイルショック後の就職難に有名住宅建材メーカーに就職口を射止めました。 営業職だけの募集だったのに、入社式の辞令には私だけ開発部門の配属先が書かれていました。 高校時代の集中勉強の習慣が、私の成績証明書に『優』をずらりと並べていたからかも... -
テニストピア歴史
【歴史3 1975年】大学・・女神との出会い
大学受験は、安全圏に落として自信のあった1期校は落ち、安全圏に落とし過ぎた2期校は合格したものの行く気を無くしました。 不合格の自信のあった1.5期校は、観光がてら合格発表を見届けに行った両親から吉報がもたらされました。 その京都府立大学は、... -
テニストピア歴史
【歴史2 1972年】高校・・鬼監督との出会い
小学時代から学業がクラス一二番だった私は、進学校の清風南海高校に進みました。テニスは趣味で続ける目的で迷わず入部しました。 それが思惑外!雨の初日に退部を考えました。 休みだろうと思っていたら、雨の日の恒例だという7階の階段室まで40往復の... -
テニストピア歴史
【歴史1 1969年】中学・・テニスとの出会い
テニスとの出会い。 それは高石中学校テニス部です。 従ってテニストピア生みの親はその顧問安井先生です。 けれどもコート1面を軟式と共用のため、創部二年目の硬式がコートを使えるのは週二日。 一人週約10分でした。 先生も朝練や校庭に張った防球ネッ...
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