この記事は本来、テニストピア歴史3〜4に書き加えられるべきものでした。
「もう時効だよな」
「封印しておくほどのことでもないよな」
先日の同窓会でそう思うようになったので書きます。
私の就職は今話題の言葉を使うと「僥倖」です。
オイルショック後の就職難でした。
しかし専攻を活かした建材メーカーを射止めました。
更に
営業職のみの募集だったのに、開発部門に抜擢されました。
更に
開発部門のリーダー養成のために、筑波大学で人間工学を半年間学んでくるようにと抜擢が続きました。
私はそれを蹴ってテニストピア開業に転身しました。
その動機の大きな要因が大学のテニス部にあります。
京都府大体育会テニス部って、テニス非一筋です。
初心者率90%, 週休3日制, 月一でコンパ。
思い出は、恋愛, 下宿, 酒‥アフターテニスばかり先行します。
自分のテニスの上達は諦めました。
こう書けば、こう来ると思うでしょう。ふつう。
「私は大学で指導に目覚めました!」
違います。
二回生では
三回生からきつく言われました。
「増田は、一回生には教えるな!」
「増田は、一回生にはしつけだけやれ!」
私は、使命感に燃えて、しつけ面を頑張りました。
三回生では
三人だけだった三回生の総意で、私は主将に立候補しました。
部員総員による選挙制でしたが一票差で不信任でした。
元主将が経験浅い同僚を主将に推挙しました。
多数を占めていた二回生の思いはこうだったようです。
「私が主将になると練習が厳しいものになる」
「教えてもくれず、ただ叱ってるだけの上級生って嫌われてもしゃあないわな。」
そう自己弁護したものの、私は退部を決意しました。
しかし心の半分の希望の通り、同僚は慰留してくれました。
毎日の練習メニューを書いて主将に手渡す一年となりました。
二回生で禁じられた指導。
三回生で禁じられた指導。
その指導への想いが庭にコートが造れると判ったとたん、爆けました。
少なくとも、三回生のあの一年が無ければ‥
大学時代を良き思い出として会社員を続けていたはずです。
ちょうど今頃、開発部長を経て定年を迎えていたはずです。
三回生を始めてほどなく、一つこんな声を聞きました。
『増田さんを選んでおけばよかった』
あの時は、救われた思いがしました。
でも今となっては、反対票で良かったんです。
大差なら、落胆し過ぎて辞めていたと思うので、約半数の賛成票にも助けられました。
なお、この伝統あった総選挙制度は、私達の代三人の強い総意で、引退の置き土産に廃止しました。
私はハッピーエンドになったから、振り返るなら、廃止しなくても良かったのですが。