2004年。
教え子が全日本Jr.ダブルスで優勝するにも関わらず、大会全期間を通じて、私の姿はそこにありません。
直前の関西Jr.決勝での、親のご乱心事件のせいです。
この全日本Jr.を最後に、本校は全国選手不在期間に突入しました。
全くの濡れ衣(後に親も認めて謝罪される)と言えども、公衆の面前で辱められ、ショックで『私は二度と靱には来たくない』と言うワイフの心情に配慮して、私も誓いを立てました。
次に全日本Jr.に教え子を連れてくるまで、全日本Jr.の会場には足を踏み入れないと。
折しも、頼もしい次世代エリートが始動していました。
それまでの黄金時代、関西サーキットすら一度も同行したことがなかった私が、ほぼ全てのサテライトと草大会まで同行するほど、私は全力を注ぎました。
ほどなく頭角を表したのが、岡崎奈々と角矢安鳩方と徳田直子の3人。
私はこの時期から園児から全てバックハンド片手で育てることになります。
理由1 両手スタートは片手の可能性を摘む行為であり、両手への転向は後からでも可能という信念。
理由2 質の高い片手バックボレーを育むため。
理由3 本格的スライスバックを育むため。
理由4 レシーブ,ストローク,ボレーのリーチの長さを育むため。
理由5 全国選手第1,2号の橋本吉弘,谷野博紀の攻撃型バックを女子で再現してみたいという野望。
理由6 幻に終った片手バック第一号全国女子を実現したい野望。
理由7 本校の女子片手バックの幻の第一号の小4ジュニアの存在。
理由7の子はスライスとスピンとフラットを絶妙に使い分ける素質の持ち主でした。
お手本が無いにも関わらず、使い分けを教えていないのにも関わらず。
しかしその子は当時ドロー数が少ない難関の関西Jr.U12の出場権を小4で射止めながら、家庭の事情で出場することなく姿を消しました。
私はもしやと、関西Jr.初日、靫にその姿を探しに行ったほどの、私にとって希望の星でした。
その夢を後陣に託すことになったのです。