待ちこがれていた才能は、35歳の私の目の前に突如現れました。
その子は橋本吉弘…先に【スクール情報】”親の役割”で書いたので、一部重複します。
引き合わせてくれたのは、当時から現在に至って高石市を代表するママさんの谷恵子さん。
橋本吉弘のお父さんと親交のあった谷さんは、私の情熱を陰ながら高く評価していて下さいました。
谷さんの一言が無ければ、私はまだ、しがない街のコーチだったかも知れません。
当時大阪を牛耳っていたのは、スピン王国の住之江ジュニア。
私は先ず、高い打点からのフォアのフラットの強打を仕込みました。
厚いグリップなのにどうして高い打点からフラットが打てるのかと不思議がられたものです。
脇を空けて打つ打法は当時珍しかったのです。
フォアが強力であればあるほど、バックを狙われ、フォアは活躍の場を失います。
高い打点のフラットの攻撃性、バックボレーの成長しろ、リーチの観点から、バックは片手を選びました。
スライスとフラットとスピンの打ち分けの球出し練習と、コーチの自身の腕が上がったほどの二人のバック同士のラリー練習を経て、橋本吉弘はこう話すにまで成長しました。
『僕がバックが片手やと見るとバックばっかり狙ってくるねん!』
『そしたら嬉しくなるねんっ!』
『僕はほんまはバックの方がウイナー取るの得意やから』と。
橋本吉弘の強打は、当時、鉄壁の中ロブで誇った住之江ジュニアの中山君に阻まれました。
しかし私は、半年後の勝利を約束しました。
その中ロブ撃破の設計図は既にできていました。
当時常識外だった正面向いて踏み出すボレーと、前腕部の回内を使うスマッシュとサーブ、今では珍しくなくなった4ステップレシーブ。
何も知らないからこそついて来てくれた初級ママさん相手に悪戦苦闘した10年間は、私の指導力を磨き切っていました。
橋本吉弘は半年を待たずに、ネットプレーを駆使して6-1で完勝を果たしました。
もう一人の大阪のライバルは本人のジャッジとそのお父さんの横やりで強力なジュニアでした。
後の関西ジュニアの開会の朝、『大阪にジャッジの汚い選手が一人いることはつかんでいます。大阪で許しても、関西では許しません。』と全員の前で役員に説話させたほどのジャッジです。
しかし、そのライバルも、ほどなく実力で倒し、大阪で敵は無くなりました。
橋本吉弘の流れるようなアプローチ、深いロブにぎりぎり下がらされてのジャンピングスマッシュには、観衆から唸り声が上がりました。
しかし、元々強打でのし上がった橋本吉弘は、しばしば強打に溺れました。
中3の春、全国中学生の大阪和歌山地区予選決勝で、和歌山NO.1の上野山君にストロークの強打に固執しての0-5の劣勢を迎えました。
そこから、全サーブと全レシーブをネットダッシュという偉業で、7-5で逆転優勝を果たしてもなお、巨砲主義から卒業できませんでした。
橋本吉弘は関西ジュニアには初出場で単複第一シードとなりました。
ポイントランキング制の今日の体制下では、今後度と現れないでしょう。
関西ジュニアは、寝違えて首を傾けたままのシングルス決勝は優勝を逃ましたが、ダブルスは優勝しました。
続く初の全日本ジュニアは、まだ巨砲主義から卒業できていないことを見せつけられて、シングルスは二回戦で終わりました。
ダブルスは、全国でも誇れると想っていた橋本吉弘の関西でただ1人のビカイチの片手バックは、初回戦、対戦相手の鈴木貴男君のそれの前には、輝きも薄く負けました。
その後、全中、中牟田杯と健闘するも、入賞は叶わず、中学時代を終わりました。
私は橋本吉弘を、迷うことなく恩師の清風高校の富岡監督に委ねました。
結果、相撲で一人、体操で一人という1種目一人限定の、最上級の特待生で迎い入れられました。
入学式の当日、別室に呼ばれたお父さんは、思いも掛けず、入学金も三年間の授業料も要らないと告げられたのです。
しかし、当時の清風は、清風史上最悪の影のある時代でした。
先輩の鞄持ちに難波と天王寺と連れ回され12時を越える深夜帰宅を強いられました。
先輩とラリー練習中ネットアプローチすると、先輩に得意のネットプレイを封じられました。
『何生意気なことしてんねん!』『一年生はベースラインにおれ!』と。
レギュラーを決めるための部内戦は、勝っても負けたことにされました。
葉っぱでドリンクを買いに行かされ、釣り銭を要求されました。
そんなあれこれは、私は卒業後知らされましたが、橋本吉弘は無言で耐えたそうです。
とは言え富岡監督の知るところとなり、何度かカミナリ以上のカミナリが落とされたそうですが、無くなることはなかったそうです。
たまに指導をとの件は、一度も実現することはありませんでした。
私は、橋本吉弘との出会いがもう二年早ければブロにできた逸材だったと、今でも確信するだけに、残念でなりまん。
そんな低俗な先輩の所業をはね除けるほどの、テニスの質の高さというオーラの鎧で、武装してあげられてはいなかったのす。