開店から二ヶ月遅れでスクールを生徒二十人位で細々と開業しました。
当時は公認指導員制度が開始したコーチ黎明期です。
そのため日本テニス協会はニックボロテリーはじめ世界の著名な指導者を講習会に招きました。
民間も活況を呈しました。
今やテレビでお馴染みの児玉光雄氏がビックブレーデンジャパンを設立し、アメリカンテニススクールを創立した村井洋一氏はコーチ養成機関のプロテニス大学を立ち上げました。
私はそれらの講習会を総なめに受けました。
それは『自分への投資のためならお金は出してやるから』という両親の後押しのお陰で実現したことです。
なぜなら創業年の研修費はレッスン売上を大きく上回り、数年間はレッスンの利益は研修費で全て飛んでいたからです。
この時期に世界水準にまでテニス理論武装を高められたことに、私は両親に深く感謝しています。
今でも研修会は可能な限り受けていますが、ビッグの来日がその後減ったことは理由の一つです。
また著名な指導者の講義を集中的に受けたことで、私には各理論の長所と短所がよく見えました。
その結果、それらの長所を融合した指導理論を生み出せたことは大きな理由です。
そして、動機も運動能力も高くないご近所のママさん相手に、世界最先端のテニス理論を身につけてもらう難題が、私の指導の腕を磨いてくれました。
私は日本テニス協会の公認指導員の資格を高石市で一番乗りで取りました。
プロテニス大学の発行したプロフェッショナルⅠを第1号で取りました。
その後関西初の日本プロテニス協会の検定テストも初チャレンジでは難関のプロフェッショナル2を一発で取りました。
しかし、テニスの伝統も深く、テニスの盛んな街であった高石市には、天動説の世に地動説を唱える異端児のように私を低く評価する空気が満ちていました。
それに対する『今に見ていろ』の私の心の炎は密かに、しかし激しく燃えていました。